呉氏開門八極拳について

七世掌門人 呉連枝老師プロフィール

 当会「開門拳社」が指導している「呉氏開門八極拳」の、正式伝承者である呉連枝老師をご紹介します。
 当会代表の服部哲也は、中国・孟村において呉連枝老師に拝師し、八極拳八世伝人としての印可を受けた、外国人初の正式弟子です。


呉連枝(ご れんし)
呉連枝老師近影 1947年、八極拳発祥の地孟村に生まれる。字は鴻鶴。
幼少より六世呉秀峰老師、及び五世呉会清公より掌門人(正式な伝承者)としての厳しい訓練を受ける。
18才にして指導を始め、その弟子たちは全国武術大会において数々の賞をとった。
日本・イタリアを始め、諸外国にも八極拳の指導に赴き、またその名声を慕い、外国より多くの学習者が孟村を訪れる。
その功夫の高さと、八極門に関する研究においては他の追随を許さない。
また、暖かく高潔な人柄で知られている。
八極門七世宗家・孟村回族自治区体育運動委員会主任。
中華開門八極拳総会会長、河北省武術協会副主席。

呉氏開門八極拳の歴史(1)

 明の時代の永楽2(1404)年、時の皇帝であった燕王は北方遠征を行い、当時、孟村一帯に住んでいた人々は、ことごとく殺された。その後に燕王は下旨を出し、安徽、陜西などから人々を孟村に移住させた。現在の孟村の人々の先祖は、その時にこの地に移住してきた人々である。

 何故、最初にこのような歴史に触れるかと言うと、このことが呉家の八極拳と深い関わりがあるからだ。
  永楽2年に、安徽省から呉家の祖先、第一世である呉作栄が滄州に移ってきた。
  彼は、漢族であり、滄州の運河の管理人だった。それから時代が下って五代になり、呉浜賢という人間が誕生した。そして彼は、孟村の楊家、これが回族だったのだが、その家から妻を娶ったのだ。そこまで呉家は漢族だったのだが、この時に改宗し回族になった。
  これが呉家の歴史である。七世宗家呉連枝老師は、初代の呉作栄から数えると19代目にあたる。

 11代の時に、呉鐘が誕生している。この呉鐘が呉氏開門八極拳を創始し、八極拳の歴史はここから始まった。

呉氏開門八極拳の歴史(2)

呉氏開門八極拳の誕生

 呉鐘という人は、清の時代の康煕51(1712)年に誕生している。幼少の頃より頭が良く、8歳の時に勉学をはじめ、15歳の頃より武術を学び始めた。そのきっかけとなった出来事について解説する。

 呉鐘が畑で野菜作りの勉強をしていた時のこと、突然一人の男が彼の前に現れた。その人は喉も渇き、お腹もすいている様子だった。ちょうど昼時だったこともあって、呉鐘は、飯と飲み物をふるまった。するとその人物はとても喜んで、呉鐘を良い人間、つまり、自らの武術を伝えるのに値する人間と認めた。そこから呉鐘は武術を始めることになった。二人の修行はまず武術に関する討論から始まり、それから様々な修行を続けた。

  清の雍正5(1727)年、この時までに呉鐘は、この師のもとでかなりの功夫を得ていたのだが、自分を指導してくれている師の名前も、素性も全く知らなかった。そこで「これまで師にここまで指導をして頂きましたが、私は師の生まれも育ちも全く知りません。これは非常に残念なことです。是非私にお教え下さい」と泣いて懇願した。

  すると師は「凡知癩字乃吾徒也」つまり、<癩>という字を知っている者は全て私の弟子であると答え、そして呉鐘の元から去っていった。それから2年の後、呉鐘のもとに<癖>と名乗る拳士が現れた。そして呉鐘はその謎の拳士と試合をし、徒手、器械ともにことごとく敗れてしまった。そして試合後にこの拳士は呉鐘に向かってこう言った。「私の先生の名は癩である。呉鐘よ、私はお前に八極の秘訣を伝え、また六合大槍も伝えるようにと言われてここにきたのだ」

 このようにして呉鐘と癖の練拳の毎日が始まった。出会いから2年が経過した雍正13(1735)年、2人は南方へ武者修行の旅に出た。現在でも、この時、呉鐘が浙江省の少林寺−当時浦田少林寺と呼ばれていた−を訪ねた時のエピソードが残っている。
 当時この寺の山門には、たくさんの暗器が仕掛けられていたのだが、呉鐘は、身に武器を何も付けることなく、この門を通り抜けることが出来たのだった。この時すでに、呉鐘の実力は相当なレベルまで上がっていた。その後に呉鐘は、寺の中で守護の方丈と手合わせをしたが、特にその槍の技が素晴らしく「まさに神槍である」との賛辞を得たという。

呉氏開門八極拳の歴史(3)
  その後故郷に戻った呉鐘は、2人の武友と出会うことになる。その一人は康大力、もう一人は李章という武術家だった。康大力は徒手の拳法に優れており、李章は刀法に秀でた拳士だった。そこに神槍・呉鐘が加わり、3人はすぐに意気投合し、義兄弟の契りを交わすことになった。
 その頃の3人を讃える詩が今でも残っているのでご紹介する。

「神槍呉鐘世天双 短打擒拿康大力 提柳刀法有李章 武林三杰威名揚」

(槍において呉鐘に並ぶ者はこの世にない。短打、擒拿と言えば康大力である。提柳刀法の精髄は李章の中に有る。これが武林に三傑有りと言われ名を揚げた三人である。)

 そんな噂が伝わってか、その後に、当時の皇帝であった康煕帝の第14皇子であり、武術好きで技藝にも優れていたと言われていた允が、自分の宮殿に呉鐘を呼び、試合をすることになった。

 その試合は呉鐘の得意な槍を使って、試合用の槍の穂先に白い粉をつけて闘われるものだった。呉鐘は立場上允を傷つける訳にはいかなかったので、彼の眉に穂先をほんの一瞬軽く当て、「あなた様の負けでございます」と試合を終えようとしたが、允は、自分がやられてしまったことに気付かず、負けを信じようとはしなかった。そこで次の対戦では糊状にした小麦粉を穂先につけて勝負をした。前回と同様に眉に粉をつけられると、やはりやられたことには気付かなかったのだが、今度はくっきりと証拠が残っており、驚いた彼は呉鐘の功夫の高さに打たれ、弟子入りを懇願し、呉鐘の下で武術修行を始めたという。

 その後の呉鐘は、雍正40年になって母に考を尽くすために故郷である孟村に戻り、そこで学生たちに武術を教え始めたのだった。孟村で八極拳が行われるようになったのはこの時からということになる。

呉氏開門八極拳の歴史(4)
呉氏開門八極拳の系譜

 今までも若干述べてきたが、系譜上では呉氏開門八極拳の第一世は、そして第二世が呉鐘ということになり、癩の命を受けて呉鐘に六合大槍を授けたも拳譜の上では第二世にあたる。

 そして第三世には、呉鐘毓、呉、そして呉栄がいる。この内の呉栄は、呉鐘の一人娘であり、相当な実力を持っていたと伝わっている。彼女が結婚した相手というのは代月一という山東の武術家で、この拳士もかなりの実力を持っていたと聞いている。代月一は飛虎、太宗、太祖拳などを修めていたと言われ、呉栄は結婚後にこれらの拳法を夫から学び、孟村に持ち帰ったということだ。
 そのことにも影響を受けて、現在孟村の八極拳の套路は数多くなっていった。「孟村の八極拳の套路は、何故そんなに多いのですか?」とよく聞かれるが、このようなこともその一因となっていたのである。

 同じく第三世の呉という人は、呉鐘の実子ではなかったのだが、非常に文武に優れた人で、技藝はもちろん、この時に初めて拳譜を作った。また、24名の弟子を取り、呉家の八極拳を現代に脈々と伝えるための礎となった。
 その後、第四世になると、張克明、李大仲という2人の羅人と呉凱、高名山などの著名な拳士達がでてくる。

 現在、東北そして長春系の八極拳というものが教拳されているが、その祖となったのが、この内の張克明と李大仲である。そしてこの系統からは、後代になって黄四海、そして李書文、霍殿閣らが出ている。八極拳の系譜になぞらえるならば、黄四海が第五世、李書文が第六世ということになる。

 その後に呉氏開門八極拳の伝承は、第四世の呉凱から第五世である「鉄把掌」呉会清先師へ、さらには近代における八極拳中興の祖ともいうべき第六世呉秀峰老師に受け継がれ、現在は第七世呉連枝老師がいるということになる。ここまでが簡単な八極拳の歴史である。

呉氏開門八極拳の特徴

 開祖呉鐘より始まり、現在の七世宗家呉連枝老師に受け継がれている呉氏開門八極拳は、その特徴として剛に偏らず、柔に偏らず、剛柔相整うといった感がある。巷間武術マスコミなどでとりあげられる八極拳は、曰く「発勁凶猛」「崩撼突撃」と剛直な印象ばかりがクローズアップされるが、源流である呉氏開門八極拳は、剛柔相備えたバランスのとれた拳術である。しかし、それはもちろん八極門内部においての優劣をつけるものではない。
 
 また、その特徴の一つに套路や練功法、器械などの多彩さが挙げられる。他派八極門においては、共通項として「金剛八式」またはそれにあたるような「基本拳」から学習を開始し、

八極小架→八極大架(八極拳・単摘・大八極)→八極対打→六大開拳→八大招式

 と進んでいき、比較的他の門派に比べ、套路数は少ない。

 呉氏開門八極拳では八極小架だけで六套、付随する古伝の小架式が二套、古伝の小架式(老小架と呼ぶ)は対練が可能である。
 並行して開門八式と呼ばれる、他派で言うところの金剛八式にあたる基本拳を練習し、また、呉氏開門八極拳独自の蹴り技である「脚法八提」を併せて練習する。
 一つお断りしておくが、本来、呉氏開門八極拳では他派で言うところの「金剛八式」「六大開拳」「八大招式」「六脚式」などの単招式群を総称して「基本功」と呼んでおり、近年、呉連枝老師に、開門拳社用に「開門八式」「脚法八提」の名称を付けていただいた。

 その後、基本であり最重要套路でもある「小架一路」の練習を始め、次に他派でいうところの八極大架にあたる「単打」を学び、習熟した後に単打の対練套路である「対打」を行う。
 それと並行して、シンプルな形ではあるが奥深い意味を持つ対練である「六肘頭対打」を学び、八極拳の核心の理論である六大開を具体的な形として表した「六大開拳」の学習も開始する。

呉氏開門八極拳の套路各種
  呉氏開門八極拳では主軸におく套路が、八極小架、単打(含む対打)、四朗寛であり、これを呉氏開門八極拳における三味一体と呼ぶ。
主要な套路として、
小架一〜六路/老小架一路・二路/単打・対打/六肘頭/六大開拳/四朗寛/四朗提/連手拳/行劈拳一〜四路/太宗拳/羅漢拳/扶手一〜四路/四封四閉/十二形抱/抹面拳

などがあり、器械套路も
六合大槍/六合花槍/提柳刀/六合刀/双刀/行者棒/五十四棍/九宮純陽剣/青龍剣/八仙剣/瘋魔棍/苗刀/双鈎/乞丐棍/春秋大刀/八極三節棍

などがある。


  その他にも、源流である呉氏開門八極拳には長い歴史の中で長拳門、太極門、劈掛門などのさまざまな門派から技術交流の結果、取り入れられた套路が多々あり、ざっとそれらを列挙してみると、
二十四連手拳/太宗拳/羅漢功/桃花散/抹面拳/青龍拳/華拳/太祖拳/飛虎拳/黒虎拳/六合刀/四門刀/双刀/九宮純陽剣/青龍剣/八仙剣/行鈎/刀進槍/三節棍進槍

 などがある。しかし、これらは長い年月の間に伝承者たちによって八極門の風格と勁道を与えられ、もとのままの套路ではなく、無理なく八極拳の体系の中に組み入れられている。

 また、呉氏開門八極拳独自の内功法として、近年呉連枝老師が孟村の各把式場(練習場所・道場の意)にそれぞれバラバラに伝わっていた内功法を編纂整理し、整った体系に仕上げた「内功五行法」がある。

 しかし、この膨大な套路体系や、同じく膨大な数にのぼる練功法は一人の人間が修得することはとうてい不可能である。前述した小架・単打・四朗寛をある程度マスターした後に、修行者個人の体格、力量、適正などを見て本来老師がその後の修行課程を決めてくれるものである。

 また、呉氏開門八極拳のこの膨大な套路体系も、無駄に多いわけではない。武術本来の大きな目的の一つである実戦に向けて、個性がそれぞれ異なる修行者の能力を開発していくためである。
 少ない套路数や、練功体系でそれぞれの門派の風格を身につけて行こうとすると、どうしても画一的なものになりがちであろう。


 以上の体系を整理し、理解する為の理論も豊富であり、代表的なものに「六開八招」・「八打招」・「十大勁別」・「六不輸」・「六十四手論」などがあり、各々の詳細については套路や練功体系などと共に追々解説して行きたい。